中国北宋の名臣・包拯(Baozheng)は、清廉潔白で公正な人柄から「包青天(Baoqingtian)」と呼ばれ、当時から幅広く尊敬を集めていた。
そして包拯の文化的影響力は、今や国外にまで広がっている。90年代には、台湾のドラマシリーズ「包青天」が台湾海峡の両岸で人気を博し、2018年には中国本土で撮影された包拯が主人公の連続ドラマ「開封府(Kaifengfu)」が、中国や韓国など海外の歴史ドラマを中心に放映する日本の有料テレビ放送「チャンネル銀河」で紹介され、その人気は今でも衰えない。
包拯文化はどのようにして生まれたのか。なぜ包拯文化は海峡両岸を結びつけ、アジア地域に広く浸透することができたのか。
「安徽省文史館(Anhui Provincial Museum of Literature and History)」の特別研究員・夏冬波(Xia Dongbo)氏は、包拯の人物像を「包青天は生前からすでに有名だった。その統治能力、民衆に親しみ民衆を愛した行為、剛直で清廉な人柄に対する人びとの印象は、同時代の民衆から深く敬愛された。そして後世の人びとは、彼を題材とした『三侠五義(Sanxia Wuyi)』『包公案(Baogongan)』『鍘美案(THE CASE OF CHEN SHIMEI%%)』など多くの講談本や小説や演劇を創作した。包青天の人物像は、歴史、文化財、文学、演劇の4つの要素で構成され、4つが互いに補完し合い一体となって、数千年もの間語り継がれてきた」と解説する。
包拯の故郷を訪問した台湾包拯文化研究発展総会(2024年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/撮影者不明
後世において描かれた文化の象徴としての包青天は、フィクションの要素も多く含まれている。宋の時代には儒教の倫理観が再び盛んになり、「君は君たるべし、臣は臣たるべし(主君は主君らしく、臣は臣らしくせよ)」という思想が強調された。一方、大衆文学の世界では「清廉な官僚を尊敬する文化」が生まれた。
そのような時代背景の下、包拯の伝説的な功績には、他の多くの優れた官僚の功績までも加えられた。包拯は「青天(まるで青い天のように公明正大な人)」と称される官僚の模範としての伝説的な人物となった。
台湾海峡の両岸は、まさに「血は水よりも濃い」関係の人びとが住む場所である。
台湾における「包公文化」は、「包公廟(包拯を祀る廟)」、民間信仰と祭祀活動、「包公文化研究センター」などを通じて進められている。
雲林県(Yunlin)四湖郷(Sihuxiang)三条侖(Santiaolun)の「包公廟」は台湾で最も歴史が古く、「包公祖廟(%%Baogong Zumiao%%)」とも呼ばれる。また、「海清宮(Haoqinggong)」とも呼ばれ、清朝(Qing Dynasty)の乾隆(Qianlong)三年に、現在の福建省(Fujian)の泉州(Quanzhou)からの移民によって建てられた。286年の歴史を持つ。
台湾では、包拯の民間信仰が非常に盛んで、お祭りも数多くある。例えば、雲林県の「包公廟」では毎年旧暦の7月10日に「閻羅天子千秋慶典(閻魔大王をたたえる祭祀)」が開催され、その福を祈り災いを退ける祭が、時が経つにつれ風習として定着し、各地に分霊された神様を祀るため、信徒はその元となる神様の祖廟に線香をあげ、礼拝するようになった。
包拯文化は「漢(中華)文化圏」に広く影響を及ぼしている。研究によると、明代(%%Ming Dynasty%%)にはすでに包拯の名声は国境を越えていた。鄭和(%%Zheng He%%)の南海大遠征は、包拯文化を海外に広めただけでなく、包拯を崇敬する情報を訪問先の諸国から中国に持ち帰ることにもなった。
安徽省合肥市の包公園を観光する訪問者(2024年4月30日撮影、資料写真)。(c)CNS/撮影者不明
特に明清時代以降、伝統的な中華の伝統文化は、人びとの海外への移動に伴い海外に広まったが、包拯文化もその中に含まれている。東南アジアのフィリピン、インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポールなどの諸国には数多くの「包公廟」があり、それらの包拯を祀る形式や記念の祭典は各国でそれぞれユニークである。
夏冬波氏は「現代では文化の伝播や交流がますます便利で頻繁に行われるようになったので、包拯包文化はこれから時を超え国境を越えて世界中に広まり、海外の多くの人びとから認められ、愛される中華文化の独特の精神的シンボルになっていくだろう」と信じている。(c)CNS/JCM